私たちはモノゴトを、非常に片寄った視点と、限られた視点でしか観ていないことが多い。
全体をニュートラルに観ていないから、だからいつまでたっても言語をいじくりまわして思考するだけで終わる。

 

あなたの片手と、輝く太陽とでは、どちらが大きい?(え?太陽?ほんとに?)
これ、視点しだいです。学校で習ったから、太陽が大きいという知識に頼っているけれど、実際、あの太陽は大きく見えますか?

 

太陽の方向へあなたの手のひらをかざすと、太陽は手のひらに隠れるほど小さい。これも真実の一側面なのです。
全ての言語や言い回しには限界があります。大小という言語なども、部分的な視点でしかなく、真実だけど絶対ではない。

 

「循環」という言葉にも、私たちは片寄った思い込みをしています。
たとえば、肉体の中を血液がぐるぐる回っているとか、この世の中をお金が循環するとか、せいぜい物理世界だけに限った循環のことしか思い浮かべません。

 

「見えない世界」と「見える世界」との循環を忘れています。だから片寄った考えになる。
血液もお金も、光(素粒子)がマクロ化(拡大物理化)したもの。そして、マクロ化したらスグに、超高速で、もとのミクロへ戻る。


 

これが、最も根本的な「循環」(宇宙の創造システム)なのです。

 

「循環」とは、言い方を変えるなら「双方向性」ということです。矛盾の調和です。2つのベクトルが調和して等しく含まれているということです。

 

ですから、ミクロとマクロは全く同じものだったわけ!(空、即ち、色)(色、すなわち、空)

 

ミクロという絶対的な状態があるのでもないし、マクロという確固とした状態があるわけでもないのです。
全ては生きて動いているから、固定はなく、常に変化があるだけ


 

すべてのモノゴトが「向きの違い・ベクトルの違い」に過ぎないのです。同時多発ならぬ、同時双発です。

この同時の双方向性を忘れて、片寄ったベクトルのほうだけを観る人が多いようです。だから、光の体と肉体は別物だと考えてしまう。全く同じ!!!

 

そういう意味では、ミクロとかマクロという名詞よりも、ミクロ化・マクロ化という動的表現のほうが的を得ていると言えます。

生・死も、貧・富も、優・劣も、みな名詞というより、動的なものです。動きの方向性の表現なのです。

 

「き」と「み」も、同時の双方向性。

「光」と「物質」も、同時の双方向性。

「光の体」と「肉体」も、同時の双方向性。

「生」と「死」も、同時の双方向性。

「あの世」と「この世」も、同時の双方向性。

「内」と「外」も、同時の双方向性。

「中心」(ゼロポイント)と「周辺」も、同時の双方向性。

「悟り」と「無明」も、同時の双方向性。

「アセンション」と「ディセンション」も、同時の双方向性。

 

この双方向性の循環宇宙は、いかなる優秀な頭脳をも超えた「光の神秘」であり、「いのちの神秘」です!

 

そのような素晴らしい「いのち」の循環によって、私たち存在も周辺環境も発展方向へと創られていくのです。しかも、ありがたいことに、オートマチック・システムで!

 

それを勝手に個人的な言語でゆがめて、片寄った見方をして、循環する繁栄の動きを渋滞させているのは誰でしょうか?

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