古事記は、神話と伝説と歴史とから成り立っています。
これを純然たる「おとぎばなし」としてみることも、あるいは単なる「歴史」としてみることも、ともに行き過ぎであり片寄りです。
神話(神ながらの話)は、あくまでも「いのちの理想」、「ひとの心」のお話しとしてみるべきもので、歴史・伝説と混同することではなかったのです。

「神ながらの話」は、人類全体の夢であり理想であって、文字のない時代に語り伝えられつつ、形成されてきました。
現実人生や自然宇宙の謎について、さらには、生死について、生きる意義について、運命について、あらゆる見解を総合的にまとめて説かれているバイブルです。
たったひとつの「いのち」(=空)という「親」が宇宙の万物を生み、「子(個)」である万物は「親」の意図を知るために「いのち」を極めつくさねばならないのです。

「いのち」を知らずして、現実生活を理想的に成り立たせることはできません。
それを補助するのが「神ながらの話」の役割でした。
「神ながらの話」は「神話」として価値があり、宗教は宗教、哲学は哲学、科学は科学、それぞれが個別固有の意義があり価値があるのであって、そのうえ、そこには一連のつながりがあって、不可分の関係性を造っています。

このつながり、関係性を、一本の樹木にたとえるならば、根っこに相当するものが「神ながらの話」、幹が「宗教」、枝に相当するのが「哲学」や「システム論理」、葉・花・実に相当するものが「科学」であるといえるでしょう。
そして、これら全体を統合して維持しているものが「いのち」なのです。
つまり「いのち」の代表となるものが、根っこである「神ながらの話」ということです。
「いのち」の根源を説いた「神話」を離れて、宗教も科学も論理も成り立ちません。
根っこが枯れれば、全体が枯れていきます。
「神話」が滅びた国は、やがて消滅の憂き目にあうのは、今までの過去を見ればあきらかです。

いずれの神話が最も優秀で「いのち」に即した内容か、それは見る人の精神的な度量によって違いが出ますから、一概に断定はできませんが、この方面に最も専門的知識を有するアメリカの「JWTメーソン氏」の意見を引用すると、以下のようになります。

「神道のほうが仏教よりもはるかに優れた心の原理を有し、儒教よりも内面的見解においてはるかに深淵であり、西洋文化よりも物質的進歩と精神の進歩とをいっそう調和させる力を持っている。
もし、日本人が意識的な直感をもって、しかも同時に自覚的分析力を発達せしめるなら、神ながらの道は、他民族のくわだてが及ばない高みへと達するであろう。
しかし、日本人が自己の内なる独創力を発揮することなく、いたずらに外国文化にとらわれるならば、神ながらの道の創造的精神は硬化埋没し、日本は無力になっていくであろう。
日本人が神ながらの道を自覚し、表現することができれば、世界の三大宗教を革命せずにはおかないこと明らかである。」

神ながらの道は「いのち」の作用、宇宙摂理の作用を根本原理とするのに対し、各宗教や他国の理念はすべて「知性・理性」を根本とします。
でも、教義や理論は、手段であって「いのち」それ自体ではないから、うまく伝わらなかったら、「いのち」の原理は根本から崩れ去ってしまうことになります。

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